DOTMANの思い出:その1
出産から赤ちゃん時代
子育ては完全に終わっている・・・はずである。あんなDOTMANではあるが、彼にも可愛かった頃はあった。
ここにはそんな彼の思い出が・・・載っているのではない。他の方々の育児の参考になることも書いてない。
残念ながら、アドバイスを差し上げるほどの知識も経験も無い。
しかし・・・DOTMANが赤ん坊だった頃、育児について考えたことなどを記録しておこう・・・とふと思って作ったページである。
目次
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結婚してからすぐ、LA郊外に家を買った。にもかかわらず、運転免許は取らなかった。(私は運転が嫌いだ。)当時、職場はダウンタウンだった。一番近くのバス停まで、2キロほどある。毎朝、ダンナにバス停まで送ってもらっていた。しかし、妊娠しているとわかってからは、運動のために毎朝バス停まで歩くようにした。あの頃は、ふつーのOLをやっていたので、一日中座りっぱなしの生活だったのだ。
バスといっても、私が利用していたのは「通勤バス」である。"Park and Ride"と言って、バス停の近くまで車で来て、そこ車を停めてバスでダウンタウンまで行く。もちろん、ダウンタウンの渋滞をさけるためだ。家の近くのバス停の後は2箇所ほどバス停があり、その後は高速道路でダウンタウンへ向かう。
LAのバスは怖いという噂もあるが(路線、時間帯によっては事実だ)、通勤バスは全然怖くない。朝ご飯を食べている人、化粧をしている人、髭を剃っている人、中には着替えている人までいる。和気藹々と話しているわけではないが、雰囲気はいたって穏やかである。
行きはいつも座れるのだが、帰りは時々席がないことがある。しかし、妊婦は偉いのだ!大きなお腹をかかえて、よっこらしょっとバスに乗り込むと、誰かが必ず席を譲ってくれる。たまに誰も譲ってくれないと、運転手の出番になる。運転手が客の中でも若そうな人を指差して「お前、立て!」と言うのだ。言われたほうは、「あ、気がつきませんで」という感じでスーッと立つ。
バスに乗り遅れそうになっても焦る必要は無い(妊婦と高齢者と美人だけね)。運転手の顔を見て、手を振れば、じっと待っていてくれる。そこで大きなお腹をかかえて、ゆっくりと歩いて行って、バスに乗り込んでも、嫌な顔をする客は一人もいない。(運転手が男性で、乗り遅れそうな人も男性だった場合、無視される確率はほぼ100%である。)
話は逸れるが、若い頃、グレイハウンドという長距離バスを利用してアメリカ旅行をしたことがある。基本的には金のない人が利用するバスであるから、こわそーなお兄ちゃん達がたくさん乗っている。ある時バス停で、小さな老婦人が、パンクなお兄ちゃん(こわそーだったぞ!)を指図して、荷物をバスから降ろさせていた。「孫と一緒に旅行かな?中々微笑ましい光景ではないか。」と思って見ていると、そのバス停で降りたのは、老婦人だけであった。二人は全くの他人だったようだ。
ここでも、老人がバスを乗り降りする時は若者が手伝うのが当然になっている。誰も手伝わなければ、運転手が指名して手伝わせる。(何故か運転手は手伝わない。)グレイハウンドであろうが、ローカルバスであろうが、運転手には言うことを聞かない客を拒否する権利がある。バス停でもないのにバスを停めてドーナツを買いに行くのも運転手の権利なのであろうか?
子供が生まれてから、仕方なく免許を取ったので、今ではバスと縁の無い生活をしている。
2. 出産当日
愚息は帝王切開で産まれた。帝王切開は普通分娩より高いので、最初からの予定だった訳ではない。どうも、愚息がイザとなってビビッてしまったらしい。。陣痛が始まって36時間経っても出てこないので、医者から「切ります!」と宣言されてしまった。
話をちょっと戻して・・・予定日のちょっと前、定期検診の日に、陣痛らしきものが始まった。何しろ初めての経験なもので、陣痛かどうかわからない。で、予約してあった時間まで待って医者に見てもらいに行った。「陣痛が始まっています。これから入院しても良いですが、初産だから多分まだまだ時間がかかると思いますよ。一度、家に帰っても良いですよ。」と言われた。夕方の4時頃のことだった。
私が入院する予定の病院は、入院費を計算する時、夜中の12時から1日が始まることになっている。これから病院に行ったら、8時間で1日分請求されてしまうではないか!もったいない・・・と、一旦家に帰ることにした。
私は痛みに弱い!ちょっとした傷でも大袈裟にわめいてしまう(ダンナほどじゃないけど)。で、家に帰っても「痛いよぉ、痛いよぉ」とぶちぶち言い続けていた。しかし、まだ産まれそうだという気がしない。お腹を壊しているという気しかしない。
夜11時頃になって、その時日本から手伝いに来てくれていた母が私の文句の声に耐えられなくなった。
「お金の問題じゃないでしょう。病院に行きなさい!」
実は金の問題だと思っていたのだが、「へ~い」と私はあきらめて病院へ行くことにした。
病院へ向かう途中、ダンナが「ねぇねぇ、よくテレビですごいスピードで病院へ向かってると警官に止められて・・・病院まで先導してもらうっていうシーンがあるでしょう。僕、あれやってみたかったなぁ。ね、ね、急がなくて良い?」と言った。能天気ヤツだ!
病院の駐車場で時計を見ると、11時40分。「ちょっと待て!あと20分で明日になる。ここまで来れば、何かあっても病院は目の前だ。あと20分、ここで待つ!」と言ったのは、もちろん私である。
で、病院の受付へ行ったのは、夜中の12時過ぎである。それから、色々あったのだが、結局生まれないまま次の日の昼近くになってしまう。よくわからんが、10cm開かないと産まれないそうだ。8cmまではいっきに開いたのだが、そこから先が開かない。しかしなぁ・・・世界中の女性が全員10cm開くとは思えんのだが。
「帝王切開をした方が良いのでは?」と医者がダンナに言う。何故ダンナに相談するんじゃ?苦しんでいるのは私ではないか!私に聞け、私に!
以下、ダンナと医者の会話。
「でも、帝王切開って傷が残るでしょう?」
「いや、今はビキニ・カットというのがあって、お腹の下の方を横に切るんです。
だから、傷は残るけど、ビキニだって着れますよ。」
「そっかー、じゃいっか」
誰がビキニを着るんじゃ?!
ビキニ・カットとやらのおかげで、帝王切開をすることになった。そうなると麻酔科の医者がやってくる。ところがナント、麻酔科の医者がダンナと同じ大学出身だということがわかった。そこで、ひとしきり世間話が始まる・・・はやく麻酔打ってくれぇ~!
「全身麻酔と局部麻酔(下半身のみ)がありますが、どちらにしますか?」「安い方!」(嘘です。そこまでは言いません。)
自分の子供が出てくるところは見逃したくない。こんなチャンスはもう二度とないであろう。(「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という言葉は私の辞書にはない。この苦しみ、二度と経験してたまるか!と決意をしたのであった・・・だから愚息は一人っ子!)
という訳で、局部麻酔を選んだ。ところが、お腹の辺りに仕切りがあって、切るところが見えないではないか。付き添っているダンナ(しかし、何故コイツは付き添っているのだろう・・・役に立つとは思えんが。)
「ねぇねぇ、私、見えないから写真取ってくれる?」と頼んだのだが、「お腹切るとこ、見たくない」と言われてしまった・・・やっぱり役立たず!
しかし、出てきた時、医者が愚息を高く持ち上げて、ちゃんと見せてくれた。いやぁ、予想通り、全然可愛くないぞ!「臍の緒、切りますか?」と尋ねられたダンナは、ふるふると首を横に振るだけであった。
その後、私は快復室へ移されることになっていた。愚息は、私より一足早く、身体を綺麗にしてもらった後、新生児室へ。ダンナは私のことなど見向きもせずに、いそいそと愚息を抱いた看護婦さんの後をついていった。
あ、そ、あなたが付き添っていたのは私じゃなくて赤ん坊だったのね。
ところで、愚息は健康そのもので産まれた。そうなると、入院は最高3日間しか保険で払ってくれない。帝王切開だと1週間払ってくれるが、そうなると、愚息は先に退院しなければならないことになる。母乳で育てるつもりだったので、食料が入院したままでは愚息が飢えてしまうではないか。仕方がないので、私も3日間で退院することにした。
医者にそう言うと・・・「あ、そうですか。」とあっさり言われた。しかも、退院前に抜糸までされてしまった。おかげで、その後、切った跡は化膿してしまった。結構大胆な医者だった。
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3. 小児科医からのアドバイス
私は子供が苦手だ。見知らぬ赤ん坊を見て、「まぁ、可愛い」と擦り寄ってくる人が多いが、私の場合、見知らぬどころか、姪・甥でさえ抱いたことがない。嫌いなのではない。意思疎通できない生き物との付き合いが苦手なのだ。(同じ理由で動物や植物も苦手である。)
だがしかし、さすがは自分が産んだ子だけのことはある!・・・実は、子供を産む前はそう思うのだろう、と軽く考えていた。
しかし、現実はそう甘くはない。これまで赤ん坊どころか、子供とも接したことのない私が、「はい、子供産みました。今日から母親です。」と簡単に変身できるはずがないではないか!
「泣き声で赤ちゃんが何を欲しがっているのかわかります」だと!?んなもん、わかるかい!日本からはるばるやってきた母もそれほど子供好きとは思えないのだが、彼女が抱くと、愚息はピタリと泣くのを止める。私が抱いても嫌がって暴れるばかりだ・・・このクソガキが!(しかし、流石に母は母親経験者なのだなぁ。)
ところで、退院前に愚息を診察してくださった小児科の先生から新米母に対するアドバイスを頂いた。その的確なアドバイスには、今でも感謝をしているので、ここで紹介しておこう。
『新米母の義務3か条』
1.赤ちゃんはいつも清潔に!オムツが汚れたら、すぐ取り替えましょう。
2.赤ちゃんには充分な食事を与えましょう。空腹のままほっておかないように。
3.赤ちゃんがどうしても泣き止まない時は、ドアを閉めてゆっくりシャワーを浴びましょう!
以上のことだけ守れば、赤ちゃんは生き延びます。
3番目が最高ですな。つまり、赤ん坊とは泣くものである。赤ん坊とて機嫌が悪い日はある。
そういう時は、何をしてもムダ。ミルクを飲ませて、おむつをかえたら、ゆっくりシャワーを浴びてこい。出てくる頃には、赤ちゃんも疲れて眠っているだろう。という訳です。
このアドバイスのポイントは「シャワー」。シャワーの音で、赤ちゃんの鳴き声が聞こえなくなるのである。
彼女のアドバイス通り、それだけに気をつけて育てた。おかげで愚息は乳児時代を生き延びた。(充分食事を与えすぎた気がするが・・・)
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4. 授乳について
愚息は母乳で育った。従って、哺乳瓶が使えなかった。断乳後は一気にコップである。哺乳瓶が使えない、ということは、おしゃぶりが使えないということでもある。おしゃぶりは使えないわ、指ちゅぱちゅぱしないわ・・・こういうのは結構不便である。
(が、それはまた別の機会に。)
病院では子供を産む前に、「母乳にするか、フォーミュラ(人工ミルク)にするか?」という質問を受ける。「母乳!」と私は即答した。母乳は無料だ!自己製造できるものに何故金を払わねばならないのだ!フォーミュラとは、母乳が出ない母親が使うものだと思っていた。同じ金を使うなら、私が美味いものを食べて、美味しい母乳を造った方が、二度美味しいではないか。しかも、哺乳瓶を消毒したり、外出時に荷物をたくさん抱えて出かける必要もない。お食事が自動的についてくるのだ。こんな便利なことはない。(母乳でも消毒しないといけなかったらしい・・・そういうことを後で言われても、もう遅い!)
後でわかったことだが、アメリカでは(日本でも?)、すぐに仕事に戻らなければならない母親は、最初からフォーミュラにするそうだ。最近は、絞って冷凍しておく母親もいるらしい。実にめんどくさそうな話だ。
胸の形が崩れるから、と母乳を嫌がる母親もいるそうだ。崩れるほどの形がない私は、そういう心配をする必要がない。美形は美形なりの苦労があるのだなぁ。
ところで、産んだらすぐ母乳が出る、という訳ではない。母乳製造はすぐに始められるのだが、乳腺とやらが開かなくては出てこない。愚息もなかなか出てこないので、汗を流しながら必死で頑張る。しかし・・・それが痛いのだ!痛みに弱い私は、即、看護婦さんに泣きついてしまった。親切な看護婦さんは、蒸しタオルを胸に当ててくれて、マッサージをしてくれた。「こうやると母乳の出が良くなりますからね。」と、容赦なくぎゅー!ぎゅー!「痛いじゃないか~!」と喚く私に、彼女はニコニコしながら「そうなのよねぇ。痛いから、自分じゃ出来ないのよね。」わ、わ、わかる!言ってることはわかるのだが、もっとやさしくしてくれ~・・・って英語で何て言うんだっけ?
愚息も容赦してくれない。彼にとっては死活問題である。その必死の形相は中々面白いのだが、噛み切られて出血までしてしまった。「お前ねぇ、噛み切ってしまったら困るのはお前なんだよ。」と言っても彼は聞く耳を持たない。
とにかく、看護婦さんの拷問と愚息の奮闘努力によって、無事母乳はしっかりと出るようになった。その後、私はホルスタインと化したのであった。
シャワーを浴びているとピューっと飛び出す。外出先で、どこかから赤ちゃんの鳴き声が聞こえてくると、勝手に出てくる。(人の子供に反応するな!)愚息は身体が大きかったので、生後1ヶ月には夜は5、6時間ぶっ通しで眠るようになったのだが、こっちは胸が張って痛くて目が覚めてしまう。そんな時は、胸にコップを当て、ツンっと押すだけで自動的に母乳が出てくる。それを捨てるのはもったいない気がしたが、かといって取っておいても役には立たない。必要な時は必要なだけ、いや、必要以上にまた出てしまうのだ。(当時母乳が出なくて困っている知り合いがいたら、後2、3人は面倒みれたと思う。)
母乳が出ない人もたくさんいるらしい。ストレスのせいだそうだ。夫の両親と同居している友人がいる。彼女は里帰り出産をし、すぐに母乳がガンガン出たのだが、家に帰った途端出なくなったそうだ。別の友人は、とても健康なのだが、赤ん坊を育てるという初めての経験に緊張して母乳が出なかったそうだ。もちろん、これといって原因がはっきりしないのに出ない人もいる。出ない人は出ないのだ。昔から母乳がでない母親はいた。ストレスが増した現代は、母乳が出ない人が増えるのは当然である。
なのに、母乳が出ないことに罪悪感を感じる母親がいる。「あなたのせいではない!」とはっきり宣言したい!出るヤツは何もしなくても出るのだ。(「母乳がでないのは自分のせいだ」と思い込んでいた友人がいた。彼女を説得するのは一苦労であった。)
ところで、最近のフォーミュラは一昔前のと違ってとても消化が良いらしい。昔はフォーミュラで育てる子は、授乳時間に気をつけなければならなかったらしいが、今はそんなことはないそうだ。赤ん坊が欲しがった時にあげれば良い・・・らしい。消化が良いので腹持ちが悪い。昔に比べ、頻繁にあげなければならない。そのことを知らずに、母親の忠告に従って、赤ん坊が泣き喚いてもじっと我慢して時計と睨めっこをしていた知人がいた。とても気の毒だった。子育ての先輩である母親のアドバイスは有難い。しかし、時代が変わってしまったことも考えるべきだと思う。じっと我慢せずに医者に相談すれば良いではないか!医者がダメなら知人友人に相談すれば良い。一人でじっと耐えている母親を見ると、とても気の毒になる。
母乳だと、赤ちゃんが一度にどの位飲んだかがわからない。育児書によると、授乳する前に赤ちゃんの体重を測り、授乳後に再び測って、その差が飲んだ量です、だそうだ。そんなの当たり前ではないか!しかし、わかったからってどうするんだ?「お、今回は飲みすぎだ。次回は控えよう。」っつうわけにはいかない・・・よね?
では、愚息への授乳の仕方について。ちょっと吸わせると、ピューっと勢い良く喉を直撃してしまうので、すぐに口から出してコップに受け止め、ぽたっぽたっと滴るようになるまで待つ。その間、愚息は喚き続ける。やっと授乳を始めても、15分ほどで左右を変えなけらばならない。(そうでないと、使わなかった方が後で痛くなる。)その時は、愚息の口の中に指をこじ入れて、無理やり口から離さなければならない。まるでスッポンのように吸い付いているのだ。実は、一度「このまま両手を離して立ち上がっても、愚息は口だけでぶらさがってるだろうな」と思い、やってみようかという気になったのだが、痛そうなので止めた。左右を取り替える時間、わずか5秒ほどの間にも、愚息は喚く。びぇ~びぇ~と泣けば可愛いのだが、その泣き声たるや「あ~!あ~!」とまるで文句を言っているとしか思えない声なのである。
通常は、お腹いっぱいになると眠ってしまう。そこで、立てに抱っこして「げっぷ」を出させるのだが、その間も眠ったままだ。・・・ナント平和なヤツなのだろう。
たまに腹いっぱいになっても、飲むのを止めないことがある。お腹はいっぱいでも口が欲しがっている・・・らしい。意地汚いヤツだ!しかし、赤ん坊はやはり赤ん坊である。胃の大きさに限界がある。その限界を超えたとき・・・ナント、愚息はちょっと顔をしかめ、ビューっと勢い良く飲んだばかりの母乳を吐くのだ。そしてその後、泣き始める。最初は、自業自得とは言え、気持ちが悪くて泣いているのだろう、とちょっとかわいそうであった。しかし、真実は・・・吐いてしまってお腹が空になり、「何か食わせろ!」と文句を言っていたのであった。
「お前はローマの皇帝か!」
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子供が3歳になるまで母乳を与えていた友人がいた。彼女自身も、幼稚園から帰ってきておやつ代わりに母乳を飲んでいたらしい。そういうのって、とても素敵だと思う。家族ぐるみのお付き合いをしていた友人が数人いて、時々皆で集まっていたのだが、彼女の息子は時々母乳を欲しがる。彼女も全く抵抗なく、母乳を与える。すると・・・他の子友達は結構羨ましそうな顔でそれを見ているのだ。思わず「君も欲しかったら並んで待ちなさい。」と言ってしまった。その後すかさず「あなた方は並んでも無駄です。」との忠告にがっかりしたのは父親達であった。(もちろん並んだ子供-父親も-は一人もいなかったが)
私は母乳一本で愚息を育てたのだが、断乳は早かった。1歳の誕生日になる前に止めてしまった。イヤ、止められてしまった。せめて1歳になるまでは母乳を与えたかったのだが、大食いの愚息が満足するほどには製造の方が追いつかなかったらしい。離乳食も始めていたし、そっちの方が美味しかったのかもしれない。ただ単純に飽きただけかもしれない。
1歳近くなるまで、寝る前にだけは母乳をあげていた。まず、愚息をお風呂に入れて、その後、私がシャワーを浴びてから授乳するのだが、私がシャワーから上がってくる頃、時々愚息はもうすっかり眠っている。そういう日がだんだん増えてきて、ついに自然に断乳ということになってしまった。・・・とても寂しかった。しかし、仕方あるまい。そうやって、徐々に母親は子離れしていくのだ。子供は・・・親の気持ちなど無視して、さっさと親離れしていくのだ。
その頃、断乳できずに苦労している母親の話を良く聞いた。できないならしなければ良いではないか?と私は単純に思ってしまった。歯が生えていると、虫歯になりやすいから?私は、愚息の歯が生えてからは寝てようがどうしようが、ゲップを出した後、口をこじ開けての歯磨きだけは欠かさなかった。(未だに虫歯は一本もない・・・しかし、これは持って生まれた歯の質のせいではないのだろうか?)前歯が出っ歯になる?あんなふにゃふにゃしたもので、本当に出っ歯になるのだろうか?でも、まぁ、科学的な根拠があるのかもしれない。しかし、細かいことに一々悩んでいたら、育児なんかできないではないか!
3歳まで母乳を飲んでいた友人の子供は愚息と同じ年だが、、しっかりと親離れし、まっすぐに育っている。彼女が子離れできているか、というのはまた別の問題である。
6. トイレット・トレーニング
実は私はトイレットトレーニングとやらをやっていない。理由は・・・面倒だったからだ。そもそも、オムツなんてものはほっといても取れる、と思う。
愚息が赤ん坊だったころ、『Me and Mammy』教室に通っていた。コミュニティが無料で提供している赤ちゃん教室だ。そこの先生が、「5歳になってもオムツが取れてなかった場合、発育に異常がある場合がありますから、医者に連れて行きましょう」とおっしゃっていた。つまり・・・5歳になるまでにオムツが取れていれば良い、と私は解釈したわけである。
ディズニーランドなんかに行くと、乗り物に乗るのに並ばなければならない。30分以上並んで、あともう少しで自分達の番になるという時になって、小さな子供が「おしっこ~!」こういう時、たいがいの親は不愉快な顔をする。子供に文句を言う親さえいる。それが5、6歳以上の子であれば、30分や1時間くらいでトイレに行きたくなるはずはないので、並ぶ前に行かなかった方が悪い。が、ああいう場所では、子供は興奮してトイレに行くのを忘れたりするから、それを注意してやるのが親の役目である。だから、不愉快な顔になるのは、己のいたらなさに気が付いたからであろう。が、親が不機嫌になると迷惑を蒙るのは子供である。
しかし、2,3歳の子供の場合、並ぶ前は全然行きたくなかったのに、並んでいる間にトイレに行きたくなった、ということもあるだろう。ましてやトイレットトレーニング中だったり、オムツが取れたばかりの子だったら、そういうことがあっても仕方がない。ディズニーランドのようにトイレがすぐ近くにある場所なら良いのだが、渋滞中の高速道路の上で「おしっこ~!」と言われると困る。という具合に、困る場合がたくさんある。んじゃ、オムツを取らなきゃ良いんだ・・・これが結論。
しかし日本社会においては、こんな能天気なことは言ってられないであろう。2歳までにオムツを取るのは当たり前だそうである。最近は変わってきているらしいが、まだそういう常識(?)がまかり通っている地域(世代?)もあり、2歳でオムツが取れてない親は肩身の狭い思いをすることもあるそうだ。「ほっといてくれ!」と堂々と言えない人も多いことであろう。
実際、こちらの日本人社会の中で「あの子、3歳になるのにまだオムツが取れてないのよ」と心配している風に装って、非難しているのを聞いたことがある。彼女は顔をしかめて、さも深刻そうにそう語っていた。そういう言葉が、新米母を神経質にさせ、事態を悪化させることになる、ということに気がついていないのだろうか?たかがオムツである!「だから何なんだ!」と言いたい。(イヤ、実はその時、言ってしまったのだが・・・)
私自身は事情があって1歳の誕生日前にトイレットトレーニングが完了していたそうだ。トレーニングは生まれてすぐ始まったらしい。これは『躾』ではなく『飼育』である。愚息が1歳半の時、里帰りをしたのだが、まだオムツをしている愚息に母は呆れていた。呆れるだけなら良いのだが、とても心配をしていた。が、一体何が心配だったのだろう?漠然と「心配だ」と言われても、対処のしようがない。
「まだオムツが取れてないなんて恥かしい」と言われても困る。一体誰が誰に対して恥かしいのだろう?愚息はオムツをしていても全然恥かしがっていなかった。私も全然恥かしいとは思わなかった。「思え!」と言われても、こればっかりは思わないのだから仕方がない。母が恥かしいのだろうか・・・しかし、母は愚息の母親ではないのだから、恥かしがる必要はない。それでも恥かしいと思うのは、仕方がない。理由が無くても思ってしまうことはある。理由があっても思わないこともある。心配しても仕方が無いことを心配するのが母親というものだ。そこのところをしっかり認識して、周りに文句を言わないで欲しい。
さて、愚息は布オムツで育った。何故紙オムツを使わなかったのか・・・布オムツの方が安いからだ。で、夏になると布オムツをつけていると非常に暑苦しい(ような気がした・・・私がしてるわけじゃないから真偽の程はわからない)。だから、愚息が2歳の夏、オムツを外してしまった。もちろん、トイレットトレーニングなんぞは全くやってない。「暑いからオムツ取ろうね。おしっこしたくなったら教えてね。」と言っただけである。当然、家中がトイレになってしまう。愚息が「おしっこ~」と言った時には、すでにやってしまった後だ。知らせるだけ良しとしておこう。パンツを脱がせて、汚れた床を掃除して(スプレー洗剤と雑巾のセットはいつも身近に用意しておいた)、新しいパンツをはかせて、汚れたパンツを洗う・・・ということを1日中やっていた。その度に「今度はおしっこする前に教えてね」と言うのだが、「はい!」という元気の良い返事が返ってくるだけで、一向に教えてくれない。ま、そんなもんでしょう。
母から電話で「オムツ取れた?」と聞かれた時は、思わず「うん、取れたよ」と嘘をついてしまった。「おいおい、オムツ取れるまで、もうおばあちゃんに会えないよ」と自分の嘘を息子のせいにする私であった。が、この程度の嘘は良い。問題は幼稚園だ。色々考えた末(それはまた別の話)、愚息は1年早く幼稚園に通うことになった。2歳の時だ。保育園ではない。幼稚園だ。だから、当然トイレットトレーニングなんぞはやってくれない。それでも、たった2時間半である。なんとかなるだろう、とトレーニングパンツをはかせて送り出したが、なんともならなかった!初日からやってしまったのだ。ま、当然でしょうな。
何か方法はないか・・・あった!プルアップ・オムツというのがあるではないか!パンツの形をしたオムツのことだ。(しかし、あれはオムツと同じ吸水力があるので、トレーニングパンツの代わりにはならんな)幼稚園に行く前にそれをはかせることにした・・・一件落着。
家に帰ってくると、ふつうのパンツをはかせる。夏の間オムツをつけてなかったので、オムツを使うのを嫌がるようになってしまっていたのだ。あれはやはり子供でも鬱陶しいものらしい。
幼稚園でトイレに行く子供達の姿を見た愚息は、ようやくトイレというものの機能を認識したようである。(親が使っているのを見てもわからないというのは、やはり大人は自分とは違う生き物だと考えているからであろうか?)だからといってすぐ自分がトイレを使うようになったわけではない。気が向くと使う、という時期が長く続いて、いつの間にかいつもトイレを使うようになっていた。ちゃんとトイレが使えたからといって誉めた記憶は無い。が、トイレ以外の所でおしっことしてしまっても叱ったことも無い。誉めるほどのことでも叱るほどのことでもあるまい。
しかし、おねしょは困る。何故困るのか?私が夜中に起きたくないからである。だから、寝る前はオムツをつけるようにしていた。が、3歳になったある日、「僕、もう赤ちゃんじゃないからオムツはしない!」と宣言されてしまった。「おうおう、生意気な!
じゃ、おねしょしても起こすんじゃないぞ!」という訳で、愚息はおねしょをしたことがない・・・わけがない!
ある日、部屋を覗くと、新しいパジャマを着た愚息が、クマさんと一緒に床に寝ていた。一瞬何故?と思ったが、すぐにピンときた。おねしょをしてしまったのだ。おねしょをしてしまったので、クマさんと一緒に床に避難していたのだ!洗い物籠の中には、おしっこでびっしょりと濡れたパンツとパジャマが、他の洗濯物と一緒に入っていた。いやぁ、笑っちゃいますね!
その朝、思わず愚息を怒鳴ってしまった。「君ねぇ、一人で着替えられるんだったら、どうして今まで着替えるの手伝わせてたの!」その日から、愚息は着替えるのを手伝ってもらえなくなった。
・・・そうやって、愚息は少しずつ自立して(させられて?)いくのである。
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7. 食事について
私は食事のマナーについて語る資格はない。ここまで丁寧に読んでくださった方にはもうおわかりだろうが、私は食事に限らず『躾』と呼べるほどのものをしていないからだ。放任主義ではない。単に躾をサボっただけである。その結果は『DOTMANの思い出』を読んでくださればわかるだろう。が、「授乳」「断乳」「トイレットトレーニング」と来れば、次は一応「食事について」だろう。(その次は「幼稚園の選び方」と続く予定)
さて、DOTMANはデブである。何故デブかと言うと、消費以上にカロリーを摂取するからである。彼は起きてすぐどんぶりで2杯飯を食ってから学校へ行く。こういう大飯ぐらいに誰がした!私・・・かな?
「断乳について」でも書いたが、DOTMANは自主的に断乳した。哺乳瓶は最後まで使えるようにならなかったので、断乳の後はすぐにコップからミルクを飲むようになった。そう躾たのではない。彼が勝手にそうしたのだ。しかし、母乳からひとっ飛びに牛乳を飲み始めたのは、ひとえに母の怠惰からである。後で知ったのだが、牛乳に変える前に「練習用ミルク」とやらがあるそうだ。いつもながら、後で知ったのだからもう遅い。が、特に牛乳を飲ませて問題を起こしたことはない。
離乳食はお粥と豆腐の味噌汁だった。これを1日3回、作る方も作る方だが、文句も言わずに食べる方も食べる方だ。その結果・・・彼は未だに朝、ご飯と味噌汁を食べたがる。パンを食べるとお腹にもたれる、と言う。
普通逆だと思うのだが・・・従って、私は未だに毎朝ご飯を炊き味噌汁を作らなければならない。(前の日の残りご飯はマズイなどと生意気なことを言う。)離乳食に手を抜いたつけが回ってきているわけである。誰にも文句は言えない。
という訳で、彼はご飯と味噌汁だけはいくらでも食べるのだが、肉と野菜は嫌いだった。だから、子供の食事だけ彼が食べやすいように別に調理する、などということを私がやるわけがない!「嫌なら食うな!」である。基本的には、身体が欲しているものが美味しく感じられるはずである。その嗜好を無理に捻じ曲げてしまってはいけない、と思う。という訳で、彼は3歳になるまで肉と野菜を食べなかった。
さて、我が家には愚息が赤ん坊の頃、私が勝手に決めた食事のお約束がある。実に当たり前のお約束である。まず、食事中に席を立ってはいけない。途中でトイレに行きたくなったら、その時点で食事は終わったものと見なされる。急いでテーブルに戻っても、食い物は無い!しかも、間食は無し。食事と食事の間にお菓子を食べるなどもってのほかだ。従って、いくらお腹がすいてても次の食事まで待たなければならない。泣こうが喚こうが、無いものは無い!
当時の愚息の友人達の中には、遊んでは食べ、また遊びに行っては戻ってきて食べ、という子がいた。食事を忘れて遊ぶ子供の後を、お皿片手に追いかけて無理に口の中へ入れていた親もいた。それが悪いとは言わない。小食の子を持った親には彼女なりの苦労があるのだ。
しかし、我が愚息には絶対そういうことはさせない。何故か?遊んでいる子を追いかけて食べさせるなんて、面倒くさい。
ちょこちょこテーブルに戻ってきて食事をされてたら、いつまでたってもテーブルが片付かない。つまり、私の個人的理由によって、愚息はテーブルについてきちんと食事をしなければならなかったのだ。
現在13歳の愚息は、「ご飯ですよ」の一声でテーブルに駆けつけ、一心不乱に食事をする。そんなに真剣に食べなくても良いのだけど・・・
さて、次のお約束。出された物を全部食べなければおかわりはできない。離乳食を始めた時から、野菜は必ずお皿に乗せていた。無理やり食べさせたことはない。従って、長い間愚息は野菜を残していた。が、大きくなるにつれ、好物だけではお腹が一杯にならなくなってきた。お察しの通り、3歳の頃の最初の一皿の量は1歳の頃から変わっていない。従って、お皿に載っている野菜の量などたかがしれている。目をつぶって(人は何故嫌いなものを食べる時に目をつぶるのだろう?)口の中に入れ、ミルクで流し込めばそれで終わり、というほどの量である。おかわりがしたくなった愚息は、そうやって野菜を飲み込むことから始めた。が、もちろんそれだけで母は満足しない。大嫌いな物でもにこっと笑って美味しそうに食べなければならないのだ。そうじゃないと、将来ガールフレンドの家に食事に呼ばれて嫌いな物を出された時に困るじゃないか!
現在13歳の愚息に好き嫌いはない。イヤ、今でも野菜は嫌いだが、流石にミルクで流し込むことはしなくなった。どうしても好きになれない納豆が食事に出た時だけ、水で流し込んでいる。が、そこまで嫌いな納豆を無理に食べさせようとは思わないので、めったに納豆は出さない。
最後のお約束。「食事中、不味い」という言葉を使ってはいけない。世の中に不味い物はない。(と本気で考えているわけではないのだが。)例えば、私はレバーが嫌いだ。レバーは不味いと思うのだが、決して口には出さない。「不味い」のではなく「嫌い」だと言う。という風に「嫌い」という言葉は使っても良い。人様に作って頂いたものを「不味い」とは実に失礼な言い草ではないか!好き嫌いは自分の嗜好を表すものであり、作った人や料理を貶めるものではない。「嫌い」と言う人の味覚に問題があるのだ。
さて、愚息は、食事の前に必ず「いただきます。」という。・・・当たり前だが。食事が終わると、「ご馳走様でした。おいしかった、ありがとう。」と必ず言う。これは、自分で食事を作るような羽目にだけは陥りたくない、という彼なりの生活の知恵である。「不味いなんて一言でも言ってみろ、二度とお前に食事なんか作ってやらないからな!」と私が目で言っているのであろう。
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8. 初めての言葉
DOTMANはおしゃべりである。彼は1歳の誕生日前にかなりの数の言葉を言えた。1歳を過ぎた頃は『2語文』をしゃべっていた。当然2歳の頃には、かなり長い文章でしゃべるようになっていた。
さて、早くしゃべれるようになるのには、どういう利点があるだろうか?普通2、3歳児は自分の言いたいことが上手く相手に伝わらず、ストレスが溜まるという。よく「アッアッア!」とか「アー!」とか言ってるガキを見かけるが、あれも言いたいことが上手く言えなくて困っているのであろう。最後には泣き出したりもする。愚息はしゃべれるようになったのが早かったので、そういうストレスとは無縁であった。おかげでほとんど泣いたこともない。
余談だが(余談が多いな)、私はガキがびーびー泣くのは嫌いである。(大人が泣くのはもっと嫌いだが。)だからいつも愚息には「男のくせに泣くんじゃない!」と言っていた。ある日、愚息は「僕が女だったら、母さん何ていうの?」と反撃してきた。当然の反撃である。「女のくせに泣くんじゃない!と言う。」と答えた。当然の答えである。じゃ、ただ「泣くな!」と言えば良いと思う方もいらっしゃるだろう。が、それじゃ、語呂が悪いのだ。
では、早くしゃべれるようになるのには、どういう欠点があるのだろうか?
うるさい!
の一言である。
早くしゃべれるようになるのと、遅くにしゃべるようになるのと、どっちが良いのだろうか?当然、遅い方が良い。どっちみち、いずれはしゃべるようになるのである。言葉が早い遅い、とわずか数ヶ月、長くても数年の違いで一喜一憂することはない。言葉は知能の発育の目安になる、というが、それはどの発育段階にいるかの目安であって、知能が優れているかどうかの目安にはならない。
実際、「きちんとしゃべれて羨ましいわ。」と言っていた友人が、愚息と3時間ほど一緒に過ごした後、「うるさいなぁ。家の子、まだしゃべれなくて良かった。」と考えを変えたことがあった。言葉の遅かった彼女の子供は、当然のことながら、今ではきちんとしゃべることができる。
さて、彼は何故そんなに早くからしゃべれるようになったのだろう?難しいことはわからないが、多分、しゃべることが必要だったからではないか、と私は考える。
彼の初めての言葉は、「み、み、みず!」であった。時は1998年1月、愚息は珍しく風邪を引いて熱を出した。そういう時は喉が渇くのだろう。彼は必死で何かを訴えていたようだが、「お母さんは、赤ちゃんの泣き声を聞いただけで赤ちゃんが何を欲しがっているのかがわかります。」という、一般の母親の常識は私には通用しない。実際、愚息が生まれてから、泣き声を聞いて彼が何を言いたいのかわかったことは一度もない。だから、「喉が渇いた!水をくれ!」という愚息の叫びは、愚母には全く通じていなかったのである。という訳で、「み、み、みず!」であった。
ちなみに、先ほど登場した友人は、子供が「アー」と言っただけで彼が欲しがっているものがわかった。それだけでなく、「アー」と言う前に、子供が欲しがっているものを察して与えるという素晴らしい特技を持っていた。実に良い母である。甘ったれだった彼女の子供は、立派な少年に成長している。
その後、愚息は次から次へと言葉を覚えていった。「ミルク」「マンマ(これはママという意味ではない。「飯」という意味である)」「ウープ(スープ・・・味噌汁のこと)」「ゴファン(ご飯・・・彼は何故か『は』を『ファ』と発音していた)」「ジュース」「トープ(豆腐)」・・・そして、その後にやっと「かーかん(母さん)」と言った。普通「母さん」あるいは「ママ」が最初なのではないだろうか?・・・ま、いっか。
愚息が1歳半の頃、ダンナの親戚の結婚式がディズニーランドホテルで行われた。当時ディズニーランドホテルには鯉が泳いでいる池があった。(今でもあるのかな?)よちよち歩きの愚息は、池を指差して「魚、魚、魚がいるぅ~」と叫んでいた。すると「あら、この子もうしゃべるよ。」と回りに大人たちが集まってきた。自分に注目されていることに気づいた愚息は、大人たちに向かってにっこり笑い、
「お魚さん、おいしそうね!」
・・・語彙に偏りがあったのは仕方があるまい。
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9. 幼稚園の選び方
アメリカの小学校には1年生の下にKindergartenというのがあり、これを幼稚園と訳すことがある。Kidergartenは義務教育だ。ここで基本的集団生活のお約束を学ぶ。義務教育(小中高校)の学年は州や地域によって違うのだが、私が住んでいる地域の義務教育は、小学校5年、中学校4年、高校4年になっている。高校卒業までの学年が日本より1年多いのは、5歳で入学するKidergartenのせいである。
が、ここで私が言う幼稚園とはPreschoolのことだ。Preshcoolは3歳から入園できる。(それ以前は保育園、これは0歳から入れる。)
愚息は日本語で育った。赤ちゃん教室なんぞにも通ってみたのだが、英語は全くしゃべれなかった。で、愚息が2歳になった時、ふと不安になった。愚息にはアメリカ人のお友達がいない。この調子で英語社会でやっていけるのだろうか?そこで、ちょっと早いが幼稚園にでも入れてみようか、と考えた。で、幼稚園探しをした。
幼稚園はいたるところにある。保育園を兼ねているところも多い。一流幼稚園というのもあるのだろうが、私は英才教育には興味がないからそういうところは調べない。(調べたところで、金がないから入れることができない。)そこで、近くの幼稚園を片っ端から見学することにした。
さて、幼稚園見学のチェックポイントは?まずは育児書や育児の雑誌を読んで勉強する。そして我が子を入れるのに必要最低条件を書き出す。愚息を幼稚園に入れる目的は、日常会話と団体生活の基本的なきまりを学ばせることにあるのだから、できるだけ自由で楽しい幼稚園を選びたい。(『自由で楽しく』というのは幼稚園だけでなく、私の生き方の基本方針である。)
軍隊式に厳しく躾るところは避けたい。(そういう所もあるのだ。)園児にお勉強を教えるところも避けたい。
基本的考え方は万国共通だと思うので、以下、私が愚息を入れたい幼稚園を探すために書き出したチェックポイントを書いておく。
I.「アポイントメントを取らずに、突然見学に行く。」
アポイントを取らないと誰にも会うことができないアメリカ社会において、これは凄い。
理由は、
1.突然見学に行くと、幼稚園の本当の姿が見ることができる。
2.アポイントメントを取らずに見学をさせてくれる幼稚園はオープンである。後ろ暗いところがない。
3.「見学者がいると子供たちの気が散る」と、先生が神経質になっている幼稚園では、子供たちは伸び伸びと遊べない。
・・・なるほどねぇ。
II.「見学には子供を連れて行く」
子供が興味を示したらしめたものである。ものすご~く嫌がったら、親がどんなに気に入っても諦める。
III.「先生がスカートやハイヒールを履いている幼稚園は避ける。」
理由は、
1.綺麗な服を着ていると、汚すまいと思うのが人情だ。が、これでは幼稚園の先生は失格である。
2.幼稚園の先生は、イザという時(地震・火事・テロリズム等)には、子供たちを抱えて走るくらいの覚悟でいるべきである。ハイヒールだとそれができない。・・・ふむふむ。
IV.「遊び場が道路に面している幼稚園は避ける。」
これはアメリカ特有の条件だな、と思った。が、残念ながら、現在の日本には当てはまるかもしれない。誘拐を避けるためである。また、アメリカでは遊び場に車が突っ込んでいって園児が殺された、という事件も起こっている。日本だって人事とは思えない状況になってきている。
実に簡単な条件だと思った。思ったのだが、イザ探してみると、これが中々ない。まず、「アポイントメントのない方は見学できません。」というのが多かった。スカートを履いている先生も結構いる。が、ついに条件に完全にマッチする幼稚園を見つけた。ちょっと遠いけど(家から車で30分)、愚息の安全のためには仕方あるまい。
まず、突然訪ねていくと、園長先生が説明と案内をしてくれた。案内をしてくれている間、愚息は「自由にさせておきなさい。」と言われた。愚息の反応を見るためである。先生方は全員がパンツにスニーカーだった。教会付属の幼稚園なので、道路に面した駐車場があり、その奥に教会があり、その奥に幼稚園がある。車が突っ込んできても、ここまでは来るまい。
「勉強は一切教えません。」というのも気に入った。もちろんルールはある。ルールはあるのだが、礼儀に関するルールばかりで、基本的には子供の自主性を重んじるということであった。子供達は実に生き生きと遊んだり、悪戯したり、喧嘩したりしていた。
「でも、日本人の子には向いてないかもしれませんよ。」と言われた。以前、日本人の子が馴染めなくて止めていったことが数回あったそうだ。もちろん日本人が全員馴染めないわけではない。(そんなことがあるはずがない。)
一年後に入ってきた駐在員一家SYさんの子はしっかり馴染んでいた。英語が全く話せなかったT君(日本人)は、2年間英語をしゃべらずに、それでも楽しく通っていた。(しかし、頑固なヤツだな)
「勉強は教えません」には英語も含まれている。この幼稚園は英語をしゃべることを子供に強要しない。先生は英語しかしゃべれないが、身振り手振りで意思の疎通ができればそれで良しとしている。「あの子、英語をしゃべらないから何を言ってるのかわかんない。」と先生に告げ口(?)をしたある園児は、「世の中には色んな言葉がある。同じ言葉をしゃべらないからといって理解しようとしないのは間違っている。言ってることがわからなくても仲良くできるようになりましょうね。」と窘められていた。この一貫性が凄い!
ただ、「さあ皆さん、今日は○○をしましょうね。」ということがなく、自分が好きなことを選ぶシステムになっているので、何をしたいかわからない子にとっては居心地が悪いらしいのである。日本の幼稚園で決まったスケジュール通りに行動させられ、何がしたいのか自分で考える時間を与えてもらえなかった子(つまり、所謂良い子ですな)にとっては、何をやったら良いのかわからないまま、何もやらずに一日が終わってしまう、ということになってしまうらしい。
さて、一通り案内してもらって「さあ、帰ろう。」という時になって愚息の姿が見たらない。自由で明るい幼稚園だが、脱走はアルカトラス並に難しい。散々探し回ったあげく、園児たちと一緒にツリーハウスにいるのを発見。「帰るよ。」と言うと「イヤ!」普段はめったに泣かない愚息が、「帰らない~!」と泣き喚いた。それを見ていた園長先生が、愚息はまだ2歳だったのだが「この子なら明日から入園しても大丈夫ですよ。」と言って下さった。
こうして英語が全然しゃべれない愚息は、次の日から幼稚園に通うことになったのである。
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10.幼稚園、その後
良い幼稚園を選んだと思う。思うのだが、大変でもあった。この幼稚園、親が手伝わなくてはならないのだ。手伝うといっても、バザーに出品したりPTAの役員になったり(そんなものはない)するわけではない。週に1回、先生のアシスタントをしなければならないのだ。そして、その後、昼食を取りながら反省会をする。いやぁ、参った。よく3年間も頑張ったもんだ。(親は「英語がしゃべれません」は通用しない。)しかし、おかげで愚息はとても楽しい3年間を過ごすことができた。
しかし、あの自由な幼稚園においてすら、愚息はトラブルメーカーだったのである。いくら自由な幼稚園といっても、共同生活の場である。おやつの時間もあれば、お話の時間もある。外で遊ぶ時間と、教室で遊ぶ時間も決まっている。外で遊ぶ時間(これが結構長い)には何をしても良くて(教室内で遊んでも良い)、教室で遊び時間は、何をしても良いが室内でできることをする、という決まりがある。(教室でプロレスごっこはダメ)普通の子は、教室にいる時間にお絵かきをしたり工作をしたりする。材料は子供の手が届くところに置いてあり、自由に使える。
迎えに行くと、「ママ、これママのために作ったんだよ。」などと言いながら子供たちが母親に絵を渡していたりする。・・・羨ましかった。私はそういう経験をしたことがない。愚息は3年間も幼稚園に通いながら、1枚の絵も描かなかったのである。
お話の時間、最初の頃は英語が全くわからなかったので一人で外に出て遊んでいた。先生達は、その内入ってくるだろう、と温かい目で見守ってくれていたのだが、一向に入ってくる気配がない。ついに、園長先生がお話の時間になると教室へやって来て、愚息を膝の上に乗せて一緒に聞かせるようにしてくれた。実はこれ、抱いていたのではない。逃げないように押さえつけていたのである。
時々、先生がしゃがみこんで園児の身体に腕を回し、抱いているような姿で園児と話しているのを見かける。とても微笑ましい光景だ。が、これも実は説教をしているのである。抱いているような姿勢をとるのは、子ともが逃げ出すのを防ぐためである。という訳で、愚息は良く先生に抱いてもらっていた。
3年の間に、退学(退園)になりそうになったことが2度ある。一度は、2人の仲間と一緒にツリーハウスに立てこもった。教室の中に入るのがイヤだったからだ。数度にわたる先生方の呼びかけにも屈せず、愚息達はついに実力行使でツリーハウスから引きずり下ろされたのであった。先生達は愚息が首謀者だと主張する。しかし、愚息は2歳、2人の仲間は4歳である。そんなはずはない!と言い切れないところが悲しい。「君、幼稚園辞めさせられるってよ。」というと愚息が自分で交渉してきた。どういう経緯があったのかは良くわからないが、退学は免れた。
2度目は幼稚園脱走。大した事ではないと思うかもしれない。が、これはアメリカにおいては重罪なのである。(理由は言わずと知れた『誘拐』である。)幼稚園の敷地から出るには、門を通らなければならない。親が出入りできるように鍵はかかっていないが、取っては園児には届かないところにある。その門がちょっと開いていたらしい。そこで、愚息はお散歩に出かけることにした。教会の前の芝生まで行き着いたところで逮捕されてしまったが、それだけでも大事件である。門をきちんと閉めていなかったのが悪い。が、誰が悪いとか誰の責任とかいう問題ではない。何かがあってからでは遅いのだ。「幼稚園から外に出てはいけない。」というのはくどいほど言い聞かされているし、幼稚園に通うほどの子供であればこのくらいのことは守れるはずである。なのに出てしまった。「そういう子はお預かりできません。」と言われても仕方あるまい。「君、幼稚園辞めろってよ。」と言うと、「でも、僕一人でやったよ。」というお返事。
コイツ、全然わかっとらん!
が、今回も愚息は自分で交渉してきた。ただし、今回は停学(停園)処分を食らった。
幼稚園時代から停学を食らっていては先が思いやられる、と思う人は多いであろう。・・・実に先が思いやられることになっている。
さて、育児に関する話はこれでお終い。出産から育児まで、一通りのことは書いたと思うのだが、何か抜けていたら是非お知らせ下さい。「先が思いやられる」愚息がその後どうなったかは、『DOTMANの思い出:その2』へどうぞ。